レア!!奴隷出身の哲学者?エピクテトス

心の整えかた

こんにちは,ぐらです。

今日紹介したいのは、古代ギリシャのストア派の哲学者であるエピクテトスです。

彼は西暦50年頃、皇帝ネロの解放奴隷であるエパプロディートスの奴隷として仕え、のちに解放されて哲学の教師となる人です。

奴隷の子供として生まれ、自らも奴隷として長年、主人に仕え、また片足が不自由でありながら心の自由や人類の平等に関する教えを説き,のちに賢人とされた皇帝マルクス・アウレリウスの思想にまでも影響を与えた人です。

現代でも参考になる考え方がたくさんありますのでご紹介します。

この思考は、物事を「自分次第なもの」と「自分次第でないもの」とに分けて考えることから始めます。

「自分次第でないもの」を軽く見る

自由に至る唯一の道は「我々次第でないもの」を軽く見ることである。とエピクテトスはいいます。

他人に何か望む(我々次第でないもの)ことは馬鹿のすること。

他人に何かを求めず、自分にできる事に励むこと。

「正しくない」と騒ぎたてる者(我々次第でないもの)を恐れる必要は無い。

自分自身の意思(我々次第であるもの)の中で生きること。

君に起こる出来事自体に良いも悪いもない。

それを評価するのは「我々次第であるもの」

過去にも、未来にも欲望の目を向けることなく、現在の与えられた状況を見据えて、それを享受すること。

病気は、身体の妨げ(我々次第でないもの)ではあるが、決して意思(我々次第であるもの)の妨げではない。

人々を不安にするものは「事柄」それ自体ではなく、その「事柄」に対する自分の考え方(我々次第であるもの)だ。

自分軸で生きる

人に評価されたいといくら思ったところでそれはなかなか難しいことであり,評価されたところで永遠に続くことでもありません。

それにこだわりすぎると自分の本当の心を見失うことになります。

例えば、誰かに侮辱されて頭にきたり,悲しんだりしたとします。

しかし君を侮辱しているのは、君を侮辱していると、みなす君の考えなのであり、他人に認められたいと強く思う(自分次第でないもの)ことに拘ったために苦しんでいる姿なのです。

負の感情とは、意識せずに、自らの「判断」が作り出しているものであり

感情に溺れる事は、他人が悪いように見えて、その実、自分の凝り固まった判断から逃れられなかなった姿なのです。

また自らストレスの種を撒き散らしている事でもあります。

不幸の捉え方

他人が不幸にあったとき、例えば失敗した時。

まあ,こういうこともあるさ、元気出せ、と人には言える。しかし自分が失敗した時はものすごく落ち込む。

なぜ他人の不幸と同じように、自分の不幸と向き合えないのか。他人事のように自分事を捉えよ。とエピクテトスはいいます。

自分が病気になった時、身内に不幸があった時、それはとても辛いものです。

でもそんな時こそ、客観的に自分を見つめることの有効性をエピクテトスは説いています。

悪や不幸とみなされる出来事は突然であればあるほど悲惨になる。

だから、前もっての心づもりと準備は残されたものにとって、苦痛や悲しみを和らげるのに役立つ。

人間にとってありとあらゆる事は起こり得ると考えておくべきで、何かが起こったときにたじろがないこと、何一つとして起こらないことなどないということを理解しておくことこそが卓越した知恵である。

そして「私はそれを失ってしまった」とは言うな。

「私はそれをお返しした」と言うが良い。

君が与えてもらっているときは、それを大切にするが良い。ただし、あくまで他人のものとして。旅人が宿を借りるかのように扱うべきである。

快楽を遠ざけることで、どれほど君は喜び、自分自身を称えることになるかわかるだろう。

現在の小さな苦痛を選択することが、将来の大きな苦痛を回避することにつながる。

先入観を捨てて、お互いの関係をじっくり理解することに努める。

過剰な承認欲求が我々を奴隷にしたてる。

「自分自身にそう思われれば良い」と言うスタンスが大切。

ものごとの見方について

エピクテトスは人の評価を下すことにもっと慎重になるように促しています。

街で酔っ払いが管を巻いていたとしても、それだけを見て「困った人だ」と結論づけるのではなく、その背景(動機)に何があったのかを知ることが大切であるといっています。

簡単に善悪の価値判断を下すな。まずは事実を把握するところで、立ち止まれ。

問題は、行為自体ではなく、当事者の意図や動機である。

また、先輩や上司などに可愛がられている人を見て、あいつはずるい奴だと思うことも間違っているとエピクテトスはいいます。

その人は上司の機嫌を取ることを言ったり、したりして努力した結果として現在があるのです。

他人と同じことをしないでいながら、同じものを要求することはできません。

不公平など、この世には存在していません。全てが行為や恩義の相互交換として行われているのです。

そのかわり、上司に可愛がられなくても媚びないという自由意志を得ているのです。

そしてあらゆる物事には、2つの持ち手があって、一方をつかめば持ち運べるが他方をつかんだのでは持ち運べません。

現在の立場からその人を判断するのではなく、相手に対する義務や恩義や感謝の念も合わせて鑑みることが大切であり、それが人と関わるための肝でもあります。

他人も自分も非難しないのが教養のあるもののすることである。

まずは一旦感情は脇に置き、冷静になるべきなのです。

こころの安定を保つには

欲望はことごとく自分から退けること。

忌避は「我々次第であるもの」のうち自然に反したものだけに限定する。

何事に関しても是が非でもなどと思わない。

愚かだとか、無知だとか言われても一向に気にしない。

待ち伏せしている敵のように自らを監視せよ。

「心像を正しく用いることができる」=「自分の心や意識の動きが適切かどうか判断できる能力」

これが唯一自らが誇って良いものである。

真の人間的成長は、いたずらに知識を増やすことではなく、自身を省みることでこそ実現する。

日ごろから自分の感情を第三者の目を持って観察する癖をつける。

「死」を目前に置くことで、大切なことが見えてくる。

出来事が、自分の望むように起こることを求めてはならない。出来事が起こるように起こることを望みたまえ。

進歩した者の印とは

彼は誰のことも咎めない。

彼は誰のことも褒めそやさない。

誰のことも非難しない。

彼は誰のことも責めたりしない。

自分自身については、何かを知っているとか、自分がひとかどのものであるとかとはけっして言わない。

人から何か言われたり、邪魔にされた時は、自分自身を省みる。

欲望はことごとく自分から遠ざける。

忌避は「我々次第であるもの」のうち、自然に反したものだけに限定する。

まとめ

エピクテトスの言葉は彼の死後、二千年ほどたった今でも心に響きます。

いつの時代でも人の悩みは変わらないのかもしれません。

最後の方には、宮沢賢治の「風にも負けず」を思わせるフレーズも出ています。

宮沢賢治さんもエピクテトスに少なからず影響を受けたのかもしれませんね。

エピクテトスはものごとを「我々次第であるもの」と「我々次第でないもの」との二つに分けて考えることをよしとしています。

奴隷の子として生を受けた人生は運命であり「我々次第でないもの」に当たります。

災害や病気なども、ここでは「我々次第ではないもの」に分類されます。

逆に、奴隷の子として生まれても、足が悪くても、災害に見舞われたとしてもそれはけっして意思の妨げになるものではないとエピクテトスはいいます。

心はいつでも自由であり、自分に出来ることに励むことは、いつでもどんな時でもできるというのが「我々次第であるもの」に該当します。

君に起こる出来事自体に良いも悪いもない。それを評価するのは、我々次第であるもの

という言葉は、どんなことにも通じる金言だと思います。

何か起きた時、すぐに災難だと決めつけずにここで何ができるか、この出来事で何を学べるのかと立ち止まって考えることも必要なんだと教えられました。

マーフィーの考え方とは違っていますが、哲学もひとつではありません。

自分に合うもの、受け入れやすいものを少しでも取り入れて、前向きに人生を歩んでいければと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました😊

いままで培ってきた人生観がじわじわと変わった本
わたしがこの本を読んで、とくに感銘を受けたのが、マイナスの感情をあっさり手放すということです。誰かに不愉快なことをされても、いつまでも根に持たず,さっさと許してしまって、その人を解放してあげる。