無常の世の中

gura

『正法眼蔵』の教え

わたしは図書館で本を借りてくると記憶に留めておきたい文章だけ抜粋してノートに書き残しています。
今日はその中の一つをご紹介したいと思います。

道元禅師は『正法眼蔵』の中で「無常は仏性なり」と語り、「しかあれば草木叢林の無常なる、すなわちこれ仏性なり。国土山河無常なる、これ仏性なるによりてなり。」と、宇宙を構成するすべてが無常であると説いた。

この無常の世の中そのものが仏なのであり、山川草木も、栄枯盛衰、万物の変化も仏の姿なのである。したがって仏ははるか遠くの存在ではなく、われわれは仏に包まれて生きているのである。また「生死は仏の御いのちなり」ともいって、われわれ衆生は生まれて死んでいくのが、それもまた仏の命なのだと説く。人間の喜怒哀楽、生離病苦はすべて無常という理法の中に包まれている。それが本当の人の姿である。その理法の中で、人は決して孤立しているのではない。親、子、他人、さらには山川草木、鳥獣との無限の因縁によって、それらのお陰によって生きているのである。こうした森羅万象のつながりの中で生きることを受け入れる、その強さが無常を肯定することなのである。

人間が苦しみを感じるのは無常を無常と認めないからである。地位も財産も若さも永遠のものではない。だから世間は無常であること、有為転変は世の常であることを認めればおのずから苦しみも消える。

人間の人生最大の問題は煩悩である。
それを認め、悟れば解脱ができる。
だから今一瞬一瞬をあるがままで満足すべきだというのである。

人生の虚しさを肯定すれば後ろ向きになることもなく、いつまでも前向きに虚しさの中を生きていくことができる。
それが、悟りへの道なのである。と


「虚しさの中を生きていく」といわれるとなんだかつまんなそうに聞こえますが、いまの世の中に起きているさまざまなことの本質を大きな歴史の流れの中で洞察し、それを自分の感受性と認識力、洞察力によって咀嚼し受け入れていく。それがもののあわれを知り認めた上で淡々と生きていくことなのかもしれませんね。


秋の夜中、しみじみと人生の奥深さに浸るのも楽しいものです。

最後まで読んでいただきありがとうございました😊
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