宮沢賢治のこころとは
これは宮沢賢治作品集の終わりに中沢新一さんが書かれた「あとがき」です。 なんか,グッと心に響いたのでご紹介します。 贈与する人 中沢新一 魂は商品として、売り買いすることができません。情報として蓄積したり,伝達したりすることもできません。魂は贈与されるものです。 自然から人へ、人から人へ、魂は見返りを求めることなく、送り与えられ、それを受け取った人は、自分が受け取ったものにまさる素晴らしい贈り物を他の人々に贈り与えようとするのです。 人はいったい何の力にうながされて、このような贈与をおこなうのでしょうか。 自分や自分に親しい者たちだけが、幸福になったり、利益を得たりすることを望んでいるあいだは、人は贈与者になることはできません。 そういう人は、贈与者ではなく、商売をするのです。商売は人と人の間に距離を作り出す力を持っています。 人の所持品がもはや魂にかかわるものではなく、その人から切り離すことができるようになったとき、はじめてその物は商品となることができます。お互いに分離された人と人との間を,魂の問題などには無関係な商品が受け渡されていきます。 そこで働いているのは、人と物、人と人を分離する「ロゴス」の力です。商品の売り買いによって人と人が結びつけられることはありません。 ・・・・《途中割愛》・・・・ 宮沢賢治はずいぶん若い頃から自分をとりまいている自然や、素朴な人々の心の動きや、あるいはそれらすべてを包み込んでいる宇宙に「贈与の霊」が満ち満ちているという直感を抱いていたようです。 何の見返りを求めることもなく、ただ存在しているものたちを慈しむがゆえに、満ちあふれる力をわたしたちの世界に不断に贈与し続けている者に対する直感です。 それは物と物、人と物、人と人とを分離している境界線を乗り越え、打ち砕いて互いを結びあわそうとする「エロス」的な力です。 春になるとこのエロス的な「贈与の霊」は、自然の内奥に、溢れんばかりの力を贈り込んできます。そうすると、自然は自分の内奥から萌え上がってくるむせかえるような力にうながされて,さまざまな発芽を起こすのです。「贈与の霊」はいっさいの物惜しみすることなく、ふんだんに溢れるほどの力を贈り与えようとしています。 その力は全身を惜しげもなく賢治の前に開いて,さあ欲しいものは全部持っていきなさい,と告げています。ところが人間の魂も肉体もそのような宇宙的な「贈与の霊」に向かい合えるほど、自由で大きなものとしては、つくられていません。 暴風のような「エロス」の力に吹き晒されて、宮沢賢治はその力の前で、一人の修羅と化していくのです。 このとき彼は、芽吹き、開花する自然をとおして自分のほうに呼びかけを行なっているものの存在を,直感によってはっきりとつかみ取っています。 すべての存在のうちには,それを動かし生かしている慈愛を本質とする霊が動いていて、それはこの世界に、春も、夏も、秋も、冬もそれぞれの形をした豊穣を贈与し続けようとしている力だということを、宮沢賢治は誰よりも鋭く、また深く認識していた人であるように私には思われるのです。 《各所、省略あり》 その自然から惜しみなく贈与された滋養を 今度は私たちに与えようとし続けたのが宮沢賢治なのかもしれません。 そんなことを思いながら、秋の夜長に「銀河鉄道の夜」を読んで、賢治のこころに浸るのもいいかもしれませんね。
自分を鍛える
「めんどくさい」が口癖の私にとっては、とてもよくわかるし,耳の痛い言葉です。実際に暇なときは(ほとんど)寝転んでいて、体重が減らないとか、体調が悪いとかぼやいているのです。では、「わかっちゃいるけどやめられない。」この状態をどう改善するのかということを具体的に示してくれているのがこの本なのです。
無常の世の中
道元禅師は『正法眼蔵』の中で「無常は仏性なり」と語り、「しかあれば草木叢林の無常なる、すなわちこれ仏性なり。国土山河無常なる、これ仏性なるによりてなり。」と、宇宙を構成するすべてが無常であると説いた。
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